根っこにあるもの

あの国(あえてどことは言いません)はあんなに自分勝手なんだ!?

ニュースを見ていると、こう思う機会、すごく多いのではないでしょうか。

東日本大震災でも、支援物資をヘリコプターで届けた海外の人が賛嘆していました。
被災地の支援は、普通、物資に人が群がり、持っているもの全てを奪おうとするので、身の危険からまずヘリコプターから降りることができないそうです。
物資はその場に投げ落とすのが常識。
ですが、日本の被災地では、手書きのヘリポートが作られ、被災者が誘導し、運んでくれたことに感謝を伝え、「ここは十分なので他の避難所に配ってください」と他の被災者への気配りまでする、そんな国は日本だけ。

今回、新型肺炎の発症のモトになったあの国の「ウイルスは米軍のせい」とか、「世界は中国(あ、言っちゃった)に感謝しなさい」とか好き勝手なことを恥ずかしげもなく発信しているのを見て、同じアジアの人種と思えんなぁ、何が違うのかなぁ?と思っていました。

ま、やり玉にあがっている「米国」も、自己中の最たるもの。
大統領がみずから America first と言っちゃうだけあります。

国益最優先なので、ある意味仕方のない事なのかもしれませんが、「よくそういうことを何の悪気もなく言えるな」「国のリーダーって厚顔無恥じゃないと務まらないのかな」と思ってしまいます。

とはいえ、日本も自己中が多くなっているなぁと感じます。
このご時世に大勢が花見に行っているし、トイレットペーパーの買い占めも起きたし、マスクを買い占めて法外な値段で転売しようとした人もいますしね。
自己中に加えて、危機管理能力がないって、救いようがないじゃないの……orz

こんな風になっちゃったのは、何が原因なのでしょうか?

ある本に、こういう考え方が載っていました。

心の根っこにあるものが、西洋は「」がベースで、東洋は「慈悲」がベースだから。

中国は、共産主義(西洋哲学から派生)で西洋に思想が偏った。
そして日本も、戦後西洋文化バンザイ!な風潮になり、西洋の思想を良しとするようになった。
だから、今がある、と。

あくまでもひとつの考え方であって、これが完全な答えではありません。
世の中、答えを一つに特定できるほど単純ではありません。複雑な事情が入り組んでいます。
……ということを踏まえて、以下ご覧ください。

愛とは何か?

なんだか、とんでもない話になってきちゃいましたね(笑)。

でも、漢字を分解してみると案外「ああなるほど」と理解出来るものなんですよ。
漢字便利♪

愛=ノ+ツ+ワ+心+夂

です。
本によると、 「ツ」 は「爪」で、「災害」や「敵」を表しているのだそうです。

その下の「ワ」は「砦」

一番下の「夂」は「友」

つまり、「砦という囲われた中で心を許した友といて、敵を寄せつけない」のが愛の元なのです。

砦が頑強になればなるほど、砦の外にいる「ツ」つまり、敵も頑強になっていきます。

愛は単体では存在できない

だとすると、「愛」には、必ず「敵」が存在することになります。

これは私が思いついて勝手に喋っているのではなくて、もう単語として存在しているんです。

愛憎

って言いますよね?

愛の裏には、憎しみが必ず存在するんです。

家族や友人を愛すれば愛するほど、相対立する人を憎み、排斥しようとなってしまうのです。

同様に、「可愛さ余って憎さ百倍」とことわざにあるように、愛が強ければ強いほど、いったん気持ちが裏の憎しみに傾いてしまえば、強い愛情と同じ分の憎しみを抱いてしまうものなのです。

これが、西洋の心の根っこです。

対して、東洋哲学の根っこは

「慈悲」です。

こちらも漢字を分解します。

(茲+心)+(非+心)です。

「茲」とは、「しげる」。
慈は「しげる心」のこと。

これは、自分がやってみて良かったこと、楽しかったことを他の人にも与えたいと思う心を指しています。

そして、「悲」は「非(あら)ざる心」のこと。

非とするもの、嫌なもの、良くないことを他の人に与えたくない、それから逃れる術を教えてあげたい、と思う心のことなのですって。
私と同じ思いをする人がいませんように、ってことですね。

子供の頃「自分がされて嫌なことは相手にしてはいけません!」と大人から言われたことありませんか? アレです。

「慈悲」とは、他の人に、喜びや楽しみ、良いことを与え、辛いことや良くないことから逃れる方法を教えてあげたい、と思う心、なんですね。

違いは何か?

一番の大きな違いは、他者(全くかかわりのない人や無関係な人)の扱いでしょう。

「愛」をベースにした場合、「自分、自分の身内、それ以外」にきれいに分けられます。
それ以外=他者 となるわけです。

対して「慈悲」をベースにした場合、「自分、あとはそれ以外」となり、自分との関りの強さなどは問題になりません。
身内とそれ以外、という線引きが非常に曖昧になります。
さらに、他人に起きた事を自分の事として考えなさい、と教育されている身では、もはや自分と他者の境界線すら曖昧です。

他者=自分以外であり、時によっては自分も入る

という、なんだかもう定義できているんだかいないんだか……の世界です。

こうなると、敵対することが不可能になります。
境界線が曖昧すぎて、仮に誰かを攻撃したら、結果的には自分を攻撃していることになりかねないわけですから。

こういう言い方が許されるのであれば、東洋的考え方の「慈悲」は、どんな相手にも、良いことを与え、良くないことを与えまいとする心がけであって、ひとことで言うと「皆が良くなると自分も良くなる」で、
西洋的考え方の「愛」は、自分が認めた一定の者だけの幸せを考えていて、それ以外の人に対しては当然憎しみと報復がある、とする心がけ、ひとことで言うと「自分の幸せが最優先」
……ということになるでしょう。

西洋的考え方は、まず自分の幸せが優先、その後他の人、となります。
対して、東洋的考え方は、まず周囲の幸せが優先、そうすれば後々自然と自分も良くなってくる、です。

大差がないようにも感じますが、ここで関わってくるのが「」です。

慾とは、心の谷間であり、欠けているもの。

埋めるために、とにかく何でも欲しくなるのです。
人間の欲望には、底がありません。
西洋的な「まずは自分、その後他人」では、底がない自分の欲望を満たさない限り、他人に向くことはありません。
そして、底なしの慾が満たされることはないということは、他人へ向くことが不可能に近い状態になってしまいます。
逆に東洋的な考えは「まずは他人、そうすれば後々自分も良くなる」なので、他人を良くしよう、となります。
そうすると、良くしてもらった人は、その人にお返しをします。それがありがたいので、さらに相手に貢献します。そうするとまた貢献してもらった人は……とプラスのスパイラルに入ります。
見返りを求めて他人に良くするのは本末転倒ですが、良い流れができると、東洋的考え方の方が強いのです。

だからみんな東洋的な考え方を採用せよ、と申し上げるつもりはありません。
そうだな、と思うのも自由、そんなキレイゴトを言ったところで何の意味もない、と思うのも自由です。

ただ、私自身は、これからも東洋的な「慈悲」ベースの生き方をしていきたいと思っています。
時代錯誤だと言われようと、それが原理原則にかなった生き方だと信じているので。

今後、テレビなどで各国の思惑丸出しのニュースが出た時に、「この国は愛憎ベースなんだな」「この国は慈悲ベースなんだな」という視点からご覧になると、見える景色が違ってくるかもしれません。

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